戦後に無一文から億万長者になったお爺さんの話を紹介します。
私の祖母のお兄さん、私にとって大叔父に当たる人の話です。
祖母も大叔父も健在で、この話は親戚が集まるとよく思い出話として話題に上がるので、私も子どもの頃から耳にタコが出来る勢いで聞かされてきました。
裕福な生活から無一文に
私の祖母は元々、お手伝いさんを何人も雇っているような裕福な家の唯一の女の子で、お兄さんが一人・弟が二人の4人兄弟。
祖母は教師になるために女学校へ進もうと勉強に励み、とても幸せな生活だったそうです。
ところが、祖母が女学校に入る直前に戦争が起こってしまいました。もちろん女学校へ行く余裕などなく、家族で山の中を逃げ回っていたそうです。
戦争の中で家や畑を失い、親族も多く亡くなり一家は無一文に。。
それでも幸いな事に、祖母の親や兄弟は全員無事で終戦を迎えました。
大叔父が美少年のせいで
戦後生き残った人々は、配給によって生活をしていたそうです。
当時、祖母は14、5歳くらい。その頃の祖母の写真が残っているのですが、どう贔屓目に見ても決して美人の部類ではない祖母(←失礼)。。。
にも関わらず、その祖母の兄である大叔父はビックリするほどの美少年!!
さてその美少年の大叔父は、商戦直後の当時、沖縄にやってきた米兵達の中で、驚くほどの美少年っぷりが噂になり一躍人気者に!
特別にキャンディやチョコレート缶詰を差し入れてもらったり、休みの日には米兵のジープに乗ってドライブに連れて行ってもらい・奢ってもらったりと引っ張りだこだったそうです。
そんなある日、いつものようにジープに乗ってドライブ中に豆腐を作るための大きな石臼を発見!
缶詰ばかり食べる生活に飽きていた大叔父は米兵の友人に頼み、家までその石臼を運んでくれるよう頼みました。
米兵は快く引き受けてくれ、3人がかりで大叔父の家に運び入れました。
ちゃっかり米兵から豆までもらう約束を取り付けた大叔父。豆をもらうと早速を豆腐作り、久しぶりの食感を堪能しました。
豆腐からビジネスが始まった
すると近所に住む人たちが、その豆腐を分けてくれないかと頼みにやってきたのです。そこで大叔父は思いついたのです!
「豆腐と何かを物々交換して商売を始めよう!」と。その思いつきは驚くほど上手くいきました。
皆、缶詰の大味には飽きていて、豆腐の優しく懐かしい味は大人気。
缶詰を持ってきては豆腐と交換していく人が絶えず、毎日毎日あっという間に豆腐は完売。家族総出で豆腐作りに精をだしました。
その内、「これは石臼一つでは限界がある」と思った大叔父は、何と再度友人の米兵に頼み、石臼を探してもらいました。
お金を介した商売に発展
さて、2つになった石臼のおかげで物々交換した缶詰が大量になってきたころ、大叔父さんは缶詰も売ることにしました。
最初の頃は物々交換で豆腐を売っていましたが、この頃にはドルも浸透してきて少しづつお金を介した商売という形が可能になってきていたのです。
そしてその試みも大成功!あっという間にお金が貯まっていきました。
それを元手に今度は畑で作物を作ることを再開していた人たちのところへ行き、野菜を仕入れ販売してみることに。
豆腐&缶詰商店でしたが、そこに野菜や果物も置くようになったので、今で言うスーパーのような存在になっていたのです。
そして、そこで儲けたお金で今度は野菜の卸市場を開くことに。県内の南と北、2箇所に市場を開いたところ、これまた大成功!!
家族はもちろんのこと、戦禍を生き延びた一族の人たちの多くもそこで働き生活するようになりました。
昔のようにお手伝いさんを雇える余裕もでてきました。
その後バブルがはじけ、不景気になるまで数十年に渡って、大叔父を中心とした祖母の家族はなんとも贅沢な暮らしを満喫していました。
不景気になり業績が落ちたとはいえ、エレベーター付の豪邸に住む大叔父。
まとめ
美人は得だなぁと思うことはありますが、大叔父はその美貌で一族を無一文から救い上げたのです。(笑)
ちなみに大叔父の子ども達も全員美形、その遺伝子をしっかりと受け継いだ孫達もモデル張りの美形ぞろい。
親族の集まりのたびにその顔面偏差値の差に、金太郎の祖母を持つ私達従姉妹一同切ない気持ちになったものです。(笑)
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